かつての私の部屋は、誰が見ても絶句するほどのゴミ屋敷でした。玄関から奥の部屋まで不用品が山を成し、最後には生活の要である風呂場までもが機能不全に陥りました。皆さんは、自分の家の風呂が使えないという状況が、どれほど精神的に人間を追い詰めるか想像できるでしょうか。私の風呂場がゴミに飲み込まれたのは、仕事の激務で心が折れた時期でした。最初は脱ぎ捨てた洗濯物を一時的に洗い場に置いただけでしたが、それが積み重なり、いつの間にか浴槽の縁まで到達しました。水回り特有の湿気で下の衣類はカビて固まり、もはや自力で動かすことさえできなくなりました。シャワーを浴びるという当たり前の行為ができなくなった日から、私の生活は一変しました。夏場は特に悲惨でした。自分の体から漂う臭いに怯え、他人の視線が怖くて電車に乗ることも、会社に行くことも苦痛になりました。私は身だしなみを整えるために、わざわざ電車で数駅離れた場所にある銭湯や、二十四時間営業のネットカフェを転々とする日々を送りました。家にある風呂を使えば無料なのに、外で千円近い出費を強いられる。この経済的な矛盾と、自分の家で体を洗えないという情けなさが、さらに私を自暴自棄にさせました。風呂場が物置と化した部屋では、当然ながら洗濯もできず、新しい下着やシャツを買い続けては使い捨てにするという、不毛なサイクルを繰り返しました。ゴミ屋敷の住人にとって、風呂場が死ぬということは、社会との繋がりが絶たれることを意味します。清潔さを維持できないという負い目が、人を孤独の深淵へと突き落とすのです。私がようやく専門の業者を呼んで清掃を決意したのは、鏡に映った自分のあまりに惨めな姿に涙が止まらなくなったからでした。数年ぶりに現れた浴槽を見て、私はその場で泣き崩れました。お湯を張り、湯気に包まれたとき、ようやく自分を許せたような気がしたのです。風呂場を綺麗に保つことは、自分を人間として扱うための最低限の儀式なのだと、失って初めて気づかされました。